すだ・ひろし 1931年京都市生まれ、54年京大卒、日本国有鉄道(当時)入社。常務理事などを経て87年、分割民営化された東海旅客鉄道(JR東海)初代社長に就任。95年会長、2004年から相談役。19年、きょうと視覚文化振興財団の理事。
■JR東海相談役の須田寛さん(89)は、新進画家の助成や研究家の育成を柱とする「きょうと視覚文化振興財団」を2019年11月に立ち上げた。苦労して洋画家となった父・須田国太郎(1891~1961年)の遺志を継ぎ「関西から洋画家が育つような環境整備を支援したい」と意気込む。
財団設立は須田国太郎の画業顕彰より、むしろ美術界への恩返しが主な動機だ。日本画優勢の陰で『洋画の育たぬ京都』『京都は洋画不毛の地』などといわれがちな京都に風を吹き込みたい。京都は素質ある人が育ちやすい要素がいっぱいある。しかし洋画を発表する場が少ない街だというのが父の持論だった。また東京に一極集中しがちな美術界、美術論壇に一石を投じるのも、父の苦労に報いることになる。1年後に公益財団法人化を目指す。
運営は阪大名誉教授の原田平作理事長にお任せする。京都市美術館の学芸課長だった時に父が死去し、作品の整理を手がけ、同館で開いた遺作展でもご担当いただいた。
京都市左京区南禅寺草川町の木造2階建てを処分して、お金が入った。これが、財団づくりの発端。私も暮らしたこの家は父が自作絵画数点と引き換えに譲り受けた。いわば物々交換で入手した家なので、父にとっては絵と同等。父は『絵は美術館に寄付せよ』とかねがね遺言していたから、家の売却代金を個人的に私物化するのは後ろめたい。そこで生前の父と親交のあった原田さんに相談し財団発足を思い立った。父の名前を冠した記念美術館を作ろうかとの案も出たが、手元に残る作品はわずか10点あまり。また幅広い事業活動の制約になりかねないので、画家の名前を前面に出すことは避けた。
洋画家として遅咲きだった父の須田国太郎(須田寛氏提供)
■主な事業活動としては展覧会やシンポジウムを開いたり、機関誌を定期刊行したり、美術論壇の若手研究者を育成したりを予定している。
父がいっぱしの洋画家になったと宣言したのは49歳と、遅咲きだった。長浜ちりめんを扱う近江商人の次男として京都市に生まれた。初めから洋画家になりたかったのに、堅実な家風に遠慮してあえて口にせず、表向きは絵画の研究家、つまり学者の道を目指した。京都帝大で美学美術史学を専攻し、大学院に進むも、画家への夢断ち難くスペインに留学。4年間の滞在中、欧州各地に足を運ぶ傍ら、世界でも屈指のプラド美術館(マドリード)で名画の研究と模写に明け暮れた。
学者志望から本懐の画家に切り替えたが、最初から画家養成の専門教育を受けたわけではない。ただでさえ京都の画壇は様々な流派の重鎮がひしめく日本画の世界。洋画家として出発しようにも師匠・弟子の人脈がないうえに、作品発表の機会にも恵まれず、芽の出る機会が乏しかった。
そんなとき、美術史の研究者たちが、父の画歴画風を分析し評価してくれたのが心強い支えになった。画家を見いだして育てるのも、画壇の大切な機能。今回「研究者への助成」を財団の主事業の一つに揚げたのは、関西の美術アカデミズムが一段と盛んになってほしいからだ。
■須田さん自身はJR東海の初代社長を務めた。
画家の一人息子なのに、私には美術の才能がない。それを見抜いた父は「好きな進路を選べ」と半ば捨て鉢に諭した。市電の車掌になりたかった夢の延長で旧国鉄に就職したが、まさか分割民営化という波乱が待ち受けていようとは。
父は肝硬変で亡くなる直前まで、スペインを再訪するのを夢見ていた。マドリードで個展が開けたら、故人への良いはなむけとなるだろう。財団にはその可能性を探ってもらうことにもなっている。
(聞き手は編集委員 岡松卓也)
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February 05, 2020 at 12:01AM
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洋画家育む風を京都に 須田寛さん、財団設立 - 日本経済新聞
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