南スマトラ出身のイポンク(中央)。息子のレンディ(右)、旅仲間のトリクと一緒に数百キロを走り、ランプンで開催されるベスパのイベントにやってきた。警官の目を避けるために、移動はほとんど夜間に行われた。(PHOTOGRAPH BY MUHAMMAD FADLI)
インドネシアの通りはバイク乗りで溢れ返っており、彼らはムッとするような熱帯の空気の中、渋滞の道路をすり抜けて走っていく。人口の85パーセント以上がスクーターを所有しているこの国には、イタリア製のスクーター「ベスパ」を愛好する人々の、世界最大級のコミュニティが存在する。ここよりもベスパ・ファンが多い場所は、本国イタリアくらいのものだろう。
「ベスパのことを知らない人はいませんが、愛好者コミュニティに加わっていない人たちには、わたしたちがどんな人間で、何をやっているかは理解できないでしょう」。ベスパの熱心なファンで、仲間からは「ブレーキ・シャロン」の通称で呼ばれているデルビスはそう語る。
彼らにとってベスパは単なるバイクではなく、ライフスタイルそのものだ。それは個人のパーソナリティの延長線上にあるものであり、大胆な自己表現の手段なのだ。 (参考記事:「中国、地方都市の縮小とそこに暮らす若者たち 写真15点」)
ベスパがインドネシアの通りに欠かせない名物となったのは、1970年代のことだ。当時ジャカルタにはベスパの生産・流通拠点があり、2001年まで稼働していた。しかし1997年に同国がアジアの金融危機に見舞われると、バイクの価格は10年間で10倍に跳ね上がり、個人でこれを所有できる人は少なくなった。現在でも、バイクを購入できる人の数は多くはないものの、その高い価格が、クリエイティブな発想を生み出した。拾ってきた鉄板、ペットボトル、ドラム缶、倒木などを使って、究極の改造ベスパを造る者たちが現れたのだ。
ベスパの改造車を造るうえで絶対に必要とされるものは、ただ一つ――ベスパのエンジンだけだ。「わたしたちのバイクは、大勢の人が持ち寄った素材から造られます」。つい最近ベスパ愛好家の仲間入りをしたばかりの、バンドンの高校に通う18歳のファウジはそう語る。「自分だけで造ることが可能な場合でも、重要なのは力を合わせて解決策を探り、完成まで試行錯誤を繰り返すことなのです。皆で一緒にバイクを組み立て、一緒にバイクに乗るわけです」
現在のベスパ・カルチャーの流行に火が付いたのは16年前、ソーシャルメディアを通じて大規模な関連イベントの様子が配信されたことだった。これをきっかけに、無数にあった小さな独立コミュニティが、全国規模で統一されていった。今では、ビンテージ・ベスパ、モッズ・ベスパ、改造ベスパなどが、2日間のイベントが開催される各地の街に大挙して集まってくる。 (参考記事:「超ワイルドな砂漠のイベント「バーニングマン」写真22点」)
「インドネシアの主要な島では、それぞれ独自の大規模イベントが毎年開かれます」。ジャワ島で最も新しく、最も参加者の多いイベント「ジャワ・スクーター・ランデブー」を主催するバン・レザはそう語る。2008年に第1回が開催されたこのイベントは、2019年には5万人を超える人々が参加した。「スクーター乗りは皆、こういうイベントを心待ちにしているんです」と、レザは言う。
スクーター乗りの集会は、必然的に旅のエピソードを交換し合う場となり、参加者はパスポートのスタンプのように、グループのロゴをあしらったステッカーを収集する。優秀者が表彰されるベスパ・コンテストの合間には、ロックとレゲエが交互に会場に鳴り響き、コンバースのスニーカー、レザーブーツ、タトゥーを身にまとった若者たちの気分を高揚させる。そして誰もが、音楽の海に身を任せる。参加者のバックグラウンドはさまざまだが、掲げるモットーはただひとつ、「1台のベスパ。1000人のブラザー」だ。
「団結力こそがベスパ・コミュニティの魅力です。そこを出発点として、わたしは物事の意味を探ろうとしています」。ジャカルタ出身で、スクーター歴が長い29歳のサシはそう語る。
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December 30, 2019 at 04:02AM
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ベスパを改造するインドネシアの若者たち 自己表現とスクーター愛と団結と - ナショナル ジオグラフィック日本版
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